629 : 本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 13:27:30 ID:qEQFSSlX0 [1/5回(PC)]
上野に行きつけの日本酒専門のバーがある。 
大将は頑固者だが、気さくで、老若男女から人気があった。 
こじんまりしたカウンターだけの店には、古くから各会の人々が三々五々集まり、 
すぐに顔見知りになって、酒と肴を楽しんでた。 
おいらも、通い始めて7年目になる。 

その夜は、小雨の降る肌寒い日だった 
「ごめんねババア」の事故以来、ずっと胸にサポーターを巻かされ、 
息もろくに出来ない状態で、おいらは結構消耗していた。 
何故か、急に熱いものが苦手になった。風呂に入るとき、コーヒーを飲むとき、 
決まって左胸の折れた肋骨の周りが、ギューっと疼く様になっていた。 
既にニヶ月以上、この状態が続いている。 
不気味なことに、胸には痣のようなものまで出て来た。 
どうも右手のような形にも見える。 
くそ、この小さな手が、おいらの肋骨を放さない。 

…考えすぎだ。 
気味が悪いが、取り敢えず気のせい、ということにしていた。 
こりゃ、冷酒で凌ぐしか楽しめない。 
客も殆ど居ない。裸電球も数人の影を投げかけるだけだ。 
小雨のはずなのに、音がやけに大きく聞こえる。 
カウンターの向こうの大将も、「こりゃ早仕舞いだな」という。 

その時、引き戸がカラカラと鳴って客が入って来た。 

 
630 : 本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 13:28:38 ID:qEQFSSlX0 [2/5回(PC)]
見慣れない顔。一見だろうか? 
年齢は多分七〇を過ぎている。店の大将と同じ位か。 
その割には、Gジャンに濡れたサンダル、ほぼ総白髪を真ん中から分けた長髪で、 
ヒッピーがそのまま年とった感じの風体だ。 
「席はー、あいとるかのう?」 
まるで広島弁の三船敏郎がやって来たような声だった。 

「平和が一番じゃ!のぅ、そう思わんか?」 
「ピースじゃ!ピース!ピース!ピース!ピース!ピース!はははははは!」 
うるさいジジイだ。 
何が楽しいのか、一人で騒ぎ散らして、さっきからピースを連発している。 
いつもは朗らかな大将も、顔をしかめている。こういう客は迷惑だ。 

「あのー、すみませんが…少し静かに呑めませんか?」 
そのジジイはきょとんとして、暫くおいらを見つめ、ついで興味深そうに目を細めた。 

「おにーさん、かなりヤバくなっとるのう」 
「何がです?」 
「後ろのも、かわいそうに…にーさん、もうフラフラじゃ。勘弁してやれ」 
「?…そんなに呑んでませんよ」 
最初の言葉は上手く聞き取れなかった。 
てっきり、酔っ払ったおいらのことを言われていると思った。 

「違うわ、わかっとらんのー」 
ジジイの表情が険しくなる。 
「コリャいけん。のぅ、表に出よっとかい、ワレ」 



631 : 本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 13:29:28 ID:qEQFSSlX0 [3/5回(PC)]
あー、ヤバい。 
殴られる、と思った。 
何か言い訳を取り繕って、この場を凌ごうと思った。 
言葉が出ない。 
睨み付ける視線に完全に縛り付けられていた。 
意識に反して、身体が席を立ち、視線に逆らえないまま、店を出てしまった。 
じわじわと身体が湿ってくる。雨の音が、さっきより更に大きくなった。 

雨の中をしばらく歩いて、ジジイは振り向きざま言った。 
「にーさん、何でそげなモンに憑かれおる?」 
「かわいそうにのぉ。じゃけん、おんどれはそこに居たらいけん」 

言われるや否や、ドンッと凄い音がして、おいらは胸をドつかれた。 
おいらのすぐ後ろにあった、別の飲み屋の看板がバリンと音を発てて倒れた。 

「!」 
振り返ると、壊れた看板の中に、モゾモゾ動く小さなものが見えたような気がした。 
目を凝らしたが、灰色で捕らえどころがない。ちっぽけなイキモノのような。 
そいつは、ギィィイッとおぞましく一声叫んで、ヨロヨロと暗がりに逃げて行った。 

ジジイは言った。 
「…オカッパ髪じゃったのぅ」 



632 : 本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 13:33:06 ID:qEQFSSlX0 [4/5回(PC)]
唖然と立ち尽くしていたおいらは、促されるままに飲み屋に戻って、ジジイと 
話をした。ようやく身体の自由が効いてきた。 
そして、ごめんねババアの経緯を話した。肋骨に絡み付いている白い手の話も。 
「オカッパって…女の子ですか?」 
「おう、五歳くらいのな。あいつは元の場所に戻るじゃろ。気にせんでええ」 
ジジイいわく、強い恨みは感じられない。しかし自分が死んだことに、気付いて 
いないのではないかと。 
しかもジジイには、火傷の跡が見えたらしい。その女の子の直接の死因も、多分 
それだという。酷い火傷を負って、程なく亡くなったのだろうと。 

「そこら辺の辻には色んなモノがおる」 
「来るモノは四方から集まって来よるが、ハテ、その後、そいつらはそれから 
逝き先を決められん。何処へ向かえばいいのか」 
「ゆえに溜まってしまうんじゃ。昔からのぅ」 
そこはモノが溜まりやすい四辻で、気をつけて運転しているのに関わらず、 
ちょっとしたタイミングで出合い頭の事故が絶えないのも、ほぼ同じような 
理由だという。 
結局のところ、あの時ぶつかった瞬間、あの女の子は偶然にもおいらに乗っかって 
しまったのだ。 
「じゃ、あのバアさんは?」 
「母親。ずっとその娘と一緒におったと思う。戦争の時から、六〇年以上、ずっと」 
いきなりの「戦争」という単語に驚いた。 
雰囲気出しの裸電球が一瞬、瞬いたような気がした。 

おいらはシャツを捲くり上げて、左胸に浮き出した痣をジジイに見せた。 
案の定、それは消えかかっていた。 
内心ホッとしながら、「この右手にアバラを掴まれていると思う」と告白する。 
痣の跡を見ながら、ジジイは言った。 
「いんや、違う。ソレは…左手じゃ」 



633 : 本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 13:34:37 ID:qEQFSSlX0 [5/5回(PC)]
「は?」 
この痣は、あの白い手が掴んでいたのは、前からではなかった。 
左手ということは…つまりあの娘は、おいらの背後からしがみついていたのだ。 
おいらとぶつかった瞬間、女の子は母親から振り飛ばされ、とっさにおいらの 
わき腹にしがみついたのだという。肋骨が二本折れるほどの強い力で。 

『マ・ッ・テ・オ・カ・ア・サ・ン』 
解った。あの声の意味が。 
でもあの時、バアさんはこっちを振り返らなかった。自分の娘が見ず知らずの男の 
背中で叫んでいたのに。なぜ、それに気付かなかった?母親なのに? 

「気が触れていれば、それも解らんよ」 
いずれにしても…、とジジイは言葉をつなぐ。 
「にーさんは、その娘をおぶって、知らずにずっと逃げておったのよ」 
「何から?」 
「熱い、熱い、熱気からじゃ。空襲の火災のな」 
これにも妙に納得した。 
近頃、熱いものが苦手になっていた理由は、ソレだった。 

あのバアさん…母親は、空襲から逃げているときも、ずっと背中の娘に謝り 
続けていたのだろうか?多分、もう息のない娘に。「ごめんね」、「ごめんよ」と。 
あの暗闇に消えた白髪頭を思い出した。 
娘を死なせ、おかしくなった頭で、今もその亡骸を背負って、半世紀以上も、 
永久に続く空襲から逃げ惑っているのか。 

今では自転車に乗って。 
この街の、そこかしこの四つ辻を巡って。