円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。
考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。
しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。
馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。
夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。
また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。
遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。
この遺跡とその周辺は、30kmほど離れたエーヴベリーの遺跡群とあわせストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群として1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。
また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナル・トラストが保有している。
ストーンヘンジの複合体は2000年間に渡る数段階に分けて建設されたが、その前と後の期間にも活動があった証拠もある。
ストーンヘンジで行われた活動の各段階の時代や内容を特定するのは、単純ではない。
初期の発掘記録はほとんど残っておらず、正確な科学的時代計測は驚くほど少ないうえ、天然チョークの氷河周縁作用や動物の巣穴形成で妨げられ、複雑になっているのだ。
今日の段階で考古学者が最も広く支持している説を以下に詳述する。テキストで述べる箇所には番号が振ってあり、図中の番号と対応している。
図は2004年現在のストーンヘンジを示している。分かり易いよう、図からはトリリトンの横石は省略している。既に石が現存しない(または始めから入っていなかった)穴は白抜きの囲み、今日確認できる石は色付きで示してある。
ストーンヘンジの発掘が最初に記録されたのは、ウィリアム・カニントンとリチャード・コルト・ホアによるものだった。
1798年、カニントンは倒壊したトリリトンの下の穴を調査した。1810年、両名は倒れたスローターストーンの下を掘り、それがかつては立っていたと結論付けた。
彼らは、その下にあったオーブリーホールのひとつも発掘した。
1900年に、ウィリアム・ゴーランドが初めて広範な調査を行い、鹿角のつるはしが穴を掘るのに使われていたこと、石がこの場所で成型加工されたことを明らかにした。
ストーンヘンジの最大の発掘は、この遺跡が国家の管理下に入ったあと、ウィリアム・ホーリー中佐によって行われた。
1919年に作業が始まり1926年まで続き、予算は労務省から出た。
二人はストーンヘンジの大部分を発掘し、それが多段階で建造された遺跡であることを最初に明らかにした。
1950年、古美術協会は、リチャード・アトキンソン、スチュアート・ピゴット、ジョン・FS・ストーンに追加発掘を委任した。
彼らは数多くの火葬を回収し、今日ストーンヘンジについて書かれるものの大部分を支配する段階的建造説を作った。
1979年と1980年に、マイク・ピットが、公益事業の調査の一環として2回の小さな調査を行い、ヒールストーンの近くで、それが近隣のものであることを発見した。
20世紀の始めまでには数多くの石が倒れたり傾いたりしていた。おそらく19世紀中に石によじ登った物見高い見物客が増えたためであろう。
骨董品収集家の図面の情報に基づき、不安定になったり倒れたりした石を起こし注意深く元の場所に戻す、三段階からなる保全作業が行われた。
もし他に何もしなければ、ストーンヘンジは観光用宣伝が言うほどには不朽というわけには行かないはずであり 、すなわち大部分の歴史的遺跡と同様に保全作業がなされていたことを意味する。
ストーンヘンジはネオ・ドルイドとペイガン、ネオ・ペイガン信者の巡礼の地である。1870年代には夏至の日の出に多くの来訪者を集めていた。
再構築されたドルイドの慣例の最初の記録は、1905年にドルイド団が儀式を執り行ったときのものである。
考古学者は鉄器時代のドルイド信仰、それよりずっと古い遺跡、そして現代のドルイド教は違うものだと強調したにもかかわらず、ストーンヘンジは次第に白装束の魔術師が行う深遠な儀式と関連付けられるように なった。
初期の儀式は、1972年から1984年まで行われた、Politantric Circleによって大まかに組織されていたストーンヘンジ・フリー・フェスティバルで興った。
しかし1985年にイングリッシュ・ヘリテッジ財団とナショナル・トラストが遺跡を祭りのために開放しないことにしたが、その頃までには夏至の日の来訪者は500人から30,000人にまで膨れ上がっていた。
祭りの終焉により、豆畑の会戦として知られる、警官隊とニューエイジ旅行者の間での暴力的な衝突が起こった。
それ以降、夏至の日のアクセスも15年間許可されず、2000年に限定的な立ち入りが検討されるまで続いた。
ほぼ同時期に、National Lampoon's European Vacationのプロデューサーが、遺跡で注目に値するシーンを撮影したが、撮影場所を見回ったその直後に偶然乗っているレンタカーをぶつけて遺跡を崩してしまった。
さらに近年では、遺跡の場所がアムズベリーとウィンターボーン・ストークを結ぶ道路A303号線とA344号線が近いことによって影響を受けている。
2003年の初めに運輸省がストーンヘンジ・ロード・トンネルの建設を含むA303の格上げを告知した。
この計画はいまだ議論の俎上にあり、政府はこの計画を完了できていない。
また、2006年オープン予定の新しいヘリテッジ・センターの告知もされた。
現在の観光客向け設備はしばしば批評されてきており、1993年にはストーンヘンジの展示物は英国下院の公共評価委員会において「国辱」と呼ばれて非難された。
イングリッシュ・ヘリテッジ財団は新しい専用の施設を遺跡から3km離れたアムズベリーのカウンテス・ロードに建設することを提案した。
アムズベリーの地元住民は、この計画はストーンヘンジから自分たちの村へ交通渋滞を引き込むとして不満を表明している。
また彼らは、今度はストーンヘンジへ行って帰るのに必要な所要時間ができるので、多くの訪問客(特にあわただしい観光をするアメリカ人と日本人観光客)が来訪したがらなくなるのではないかと指摘している。
2005年7月に、ソールズベリー地方議会によって計画の許可が却下されたことにより、この計画は不確実となった。
一方、英国政府はこの道路計画の所要の費用を検討中である。
2008年5月、イギリスの文化財保護団体『イングリッシュ・ヘリテッジ』により、何者かがストーンヘンジの表面を金槌などで叩き削り取っていたことが判明した。
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