恐怖体験

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    他の球場であれば外野フライ程度の打球が、東京ドームでは異様な伸びを見せてホームランになる、というもの。

    空調操作によって読売ジャイアンツ(巨人)の攻撃時のみホームランが出やすくなっている、と続く場合が多い。

    ドームランという言葉は東京ドームのモデルであるメトロドームで生まれ、ここでも打球の異様な伸びは見られていたが、

    パークファクターの指数によると他球場よりホームランが出にくいとの結果が出ている。

    また、空調操作があったと元球場職員が証言したが、これは負けている試合の終盤に限ってのことであり、それがどの程度試合に影響していたかは検証されていない。

    なお、空調操作で外野フライをホームランにするというネタは、いしいひさいちが漫画「がんばれ!!タブチくん!!」でよく使っていた。

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    現役時代の王貞治、長嶋茂雄は、その実績・カリスマ性により、選手は勿論審判まで特別扱いしていた、というもの。

    きわどいコースのボールを王が自信満々に見逃した場合、

    「“世界の王”が見逃したのだから」

    と、ボールと判定される例が多かったとされ、「王ボール」とも呼ばれた。

    審判員の田中俊幸は著書で「王(長嶋)ボール」の存在を否定している。

    また、打席で違和感を覚えた王にバッターボックスからピッチャープレートまでの距離を計測するように頼まれ、審判団も王の要望であることからこれを無視することができずに計測を実施したという逸話もある。

    長嶋が監督の時代、彼がどんなに激しい抗議をしても絶対に退場処分にしてはいけないという暗黙のルールがあった、という説もある。

    長嶋が監督時代

    「裁定を不服として選手全員を数十分に渡りダグアウトに引き上げさせた(1996年5月1日・対中日戦)」

    「球審・谷の帽子をつかんだ(2001年6月30日・対広島戦)」

    など、通常の監督であれば間違いなく退場や没収試合になる行動に及んでいながら、どちらも特に処分が降されていない点も、この都市伝説の信憑性を高めている。

    「王ボール」の対極の意味で「稲尾ストライク」・「江夏ストライク」が語られる場合もあった。

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    過去9度の優勝年のうち、

    1954年(昭和29年)・1974年(昭和49年)・1982年(昭和57年)・2006年(平成18年)・2010年(平成22年)・2011年(平成23年)及び日本一になった2007年(平成19年)に内閣総理大臣が交代している他、

    1988年(昭和63年)の優勝直後に昭和天皇が崩御している
    (実際の崩御は年をまたいだ1989年(昭和64年)。

    余談だが、ドラゴンズはこの年、優勝祝賀会でのビールかけを『自粛』した。

    2005年(平成17年)5月に中日ファンの森山周一郎がNHKの中日・ヤクルト戦の中継にゲスト出演した際、

    「中日が優勝した年にはろくなことが起きないと言われているので、今年は平穏無事に優勝したい」

    と発言したところ、これが

    「中日が優勝すると不吉なことが起こる」

    との意に受け取られ、240件の抗議が寄せられた(結局この年は阪神が優勝)。

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    Part3『スターダストクルセイダース』にアメリカ同時多発テロを予兆したかのような描写がある、というもの。

    2007年8月頃、作者の荒木飛呂彦が『溜池Now』(GyaO)で中川翔子と対談した際

    「なぜ描いたのか覚えていない。無意識のうちに予知していたことも考えられるが、恐らく偶然だろう」と語っている。

    なお荒木がこの噂を知ったのは2007年5月頃と、噂の出始めた時期と比べかなり遅かった。

    同作品の記述と現実の事件などを関連付けて紹介するサイトの影響も考えられる。

    また、荒木には

    「何らかの理由で年を取らない。不死身である」

    「スタンドであるザ・ワールド(時間停止能力)の使い手である」

    「土方歳三あるいはモナリザと同一人物である」

    などのジョークも存在するので、予知に関しても冗談として語られるうちに広まった可能性もある。

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    06年に行われたFIFAワールドカップドイツ大会ではメインスポンサーがドイツ企業のアディダスだったことから様々な都市伝説が生まれている。

    大会のMVPの正式名称は

    「アディダスゴールデンボール賞」

    であったことからアディダスのユニフォームを着ているフランスのジネディーヌ・ジダンが選ばれたとされている。

    また優勝したイタリア、準優勝のフランスともにユニフォームはドイツの企業(イタリアはプーマ、フランスはアディダス)であったことから地元企業のユニフォームを着たチームに有利に働いた試合があったともされている。

    なお2010年の南アフリカ大会でもアディダスが賞のスポンサーを務めたが、

    MVPはプーマのユニフォームを着用したウルグアイのディエゴ・フォルランが選ばれた。

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    975 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/11/04 23:12:00
    よくある話で恐縮ですが私のを一つ。 

    その日は特別授業で幼稚園がいつもより早く終わる日で、 
    ママンはそのことを忘れてて迎えに来てくれなかった。 
    しょうがないから家までの道(子供の足で10分ぐらいの住宅街の1本道)を 
    歩いて帰る途中、その道沿いに開けた芝生の広場を見つけた。 
    白い蓮華の花がたくさん咲いていてお花畑のようにきれいで 
    しばらく腰を下ろして蓮華の花で冠を作って遊んでいた。 
    その間20~30分ぐらいだったと思う。 
    その場所をすごく気に入った私は次の日にもその広場に行ったんだけど 
    広場があったと思う場所には塩ビのパイプが並んだ水道工事のお店があった。 
    考えてみればその場所はずっと前からその店があった所だ。 
    何かの勘違いかと思い、幼稚園への行き帰りにいつも広場を探したけど、 
    とうとうその場所は見つけられなかった。 

    あれから20年近く経ってるけど、緑の芝生に小さな白い蓮華がたくさん咲いてた 
    あの景色はいまだに忘れられない。 



    978 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/11/05 20:00:00
    >>975 
    同じような経験あります。 

    小学校の頃、通学路の途中に鉄柵風の門がまえのあるところがあって、 
    ある日、珍しく一人で帰っていた時に通ると、門のところに女の子が立っていた。 
    ニコニコしていたので、話しかけると同じ小学校の子だった。 

    「中で遊ぼう」と言われて、門を通って小道を通り抜けて歩いていくと、そこはきれいなお庭。 
    ゆりかご式のブランコや鉄棒やすべりだいもあって、お花もたくさん植えてある。 
    家も古びてはいるが、洋風っぽい造りで、日本ではないような雰囲気でとても素敵。 
    なにかの物語の中の場所に来たようで、やたらと興奮してハイテンションで遊び狂いましたw 
    ただ、家の人はいないらしくて、家の中には入らなかったのだけど。 
    すっかり、その子と仲良くなって、「また、明日遊ぼう!」と約束をして帰りました。 

    次の日、学校でその子を探してみたけど、そんな子はいなかった。 
    学年も違うし、何かの間違いか、はたまた違う学校なのに嘘ついてたのかなー? 
    なんで?などと思いながらも、またあの庭で一緒に遊びたくて、しばらくの間は 
    毎日その門の前を愛おしそうに眺めながら通っていました。 

    1ヶ月くらいして、あの日以来、いつまで経っても会えないので、思い切って 
    門の中に入って、呼んでみようと思った。 
    「すいませーん」と言いながら、門を開けて小道を入っていったら、何か違う雰囲気。 
    庭まで辿り着いたら、まるでそこは廃墟。花壇の跡のような場所には、花ひとつない。 
    錆びれた家に、ボロボロに錆びた遊戯の数々。 
    とても人が住んでるって感じではない。 
    何か怖くなって、走って家に帰ってきたが、子供の頭で「引っ越したのかな」と思った。 
    だけど、たった一ヶ月くらいで、あんなに錆びれちゃうのかなーと不思議な感じがした。 

    しばらくして、近所の叔母が遊びにきた時に聞いてみたら、 
    「あそこは十年以上空家なのよー」と言われて、なにがなんだか 
    わからなくなって、今でも不思議で仕方ない。 



    979 : 975[sage] : 投稿日:2003/11/05 20:07:00
    >>978 
    そういうのって不思議なんだけどちぃっとも怖くないんだよね。 
    いい思い出になってるよ。 



    980 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/11/05 20:20:00
    >>979 
    うん、そうそういい思い出。 
    でもさすがに、あの廃墟を見た時は、ちょっとゾーっとしちゃったけど。 
    今でも、あの庭や家のあたたかな雰囲気を思い出しちゃいます。 

    もしも実在していたのなら、そして、今でもその子と友達だとしたら、あの庭でお茶でも飲みたい。 
    いつまでも心に残る、本当に素敵な場所でした。 

    地元新宿区での話で、現在住んでるのは別の区なんだけど、訪ねていってみようかな。 
    今はもう、あの門もないのだろうか。 

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    Jリーグ・コンサドーレ札幌が、1996年(平成8年)に前身の東芝サッカー部を札幌市に移転して新法人化する際、マイクロソフト社が、メインスポンサーとして名乗り出たが、その条件が、

    「チーム名を勝利(Win)と北海道(道)に掛けて「ウィンドウズ」にする」

    であった為、運営会社の北海道フットボールクラブが断った、というもの。

    Jリーグ・アルビレックス新潟のチームカラーであるオレンジが、スポンサーである亀田製菓の目玉商品「柿の種」に由来するという噂がある。

    公式には「日本海に沈む夕陽」をイメージした色とされている。

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    力士にはマゲがつきもので引退の際に断髪式でマゲを切り落とすことから。

    1925年(大正14年)に横綱栃木山守也が優勝直後に引退した際には

    「髪が薄くなってマゲが結えなくなったから」

    という説がささやかれた。

    北勝海信芳の引退時にも同様の説がささやかれたが、この場合は実力的にも限界であった。

    実際、完全にスキンヘッドの力士は近代相撲史上存在しないが、増毛で補っていた例もあった。

    近年では琴稲妻佳弘が史上最遅で三役に昇進した際、マスコミから

    「髷との勝負ですね。」

    と冗談混じりなやりとりが紹介された。なお、相撲では、ハゲたら引退というルールはない。

    マゲが結えないという意味で言えば、昇進が早すぎて髪が伸びず、マゲが結えないというケース(雅山哲士など)があり、マゲが結えないからといって土俵に上がれないということではない。

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    世界選手権男子エリートロードレースで優勝した選手が翌年には大きく成績を落とすというケースが少なくない。

    これは優勝者は向こう1年間、アルカンシエルを着用して全てのレースに出場することが許されるため、

    クラシックレースなどのワンデイレースではアルカンシエル着用者が最も目立つ存在となるほか、

    グランツールなどのビッグレースにおいても総合首位(マイヨ・ジョーヌ、マリア・ローザ、マイヨ・オロ)、ポイント賞、山岳賞など各賞ジャージの着用者に次ぐ存在感を示すことになる。

    そのため当然のように他チームからは実力者とみなされて厳しいマークに遭いやすくなるうえ、

    そのレースの成績に関係なしにマスコミから格好の「標的」とされるケースがままあり、その結果、アルカンシエルの重圧に耐え切れなくなって調子を落とす場合が多いためである。

    また、なぜかレース中の落車事故やメカトラブルが頻発したり、レース外でも世界選手権優勝経験者は家庭不和や事故、病気に罹患するなどのトラブルが起きることなどから

    「アルカンシエルの呪い」

    というジンクスもまことしやかに噂されたりする。

    主な例として

    スタン・オッカー……1955年に優勝したが、翌1956年にアントウェルペンで開催されたトラックレースにおいて事故死。

    ブノニ・ブエイ……1963年、22歳のときに優勝したが、その年、リック・バンローイに史上2人目の3度目のプロ世界一をもたらすべく、ベルギーチームが作戦を立てていたにもかかわらずそれを無視して勝利を収めたことが後々禍根となり、1966年以降は全く活躍の場がなくなった上に、1968年にまだ28歳の年齢で引退を余儀なくされた。

    トム・シンプソン……1965年に優勝したが、2年後のツール・ド・フランス1967で急死。原因はドーピング。

    ハーム・オッテンブロス……1969年に優勝したが、1976年に自殺未遂を起こし、レースキャリアを絶たれる。

    ジャンピエール・モンセレ……1970年に優勝したが、翌1971年3月、レース(GPレティエ)中に事故死。

    エディ・メルクス……1974年に個人ロードレース優勝の他、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスでも総合優勝を果たし、史上初となる、トリプルクラウンの大偉業を達成したが、翌1975年のツール・ド・フランス第14ステージにおいて、沿道にいた観客に殴られたことなどが原因で総合2位に甘んじて以降、「カニバル」(人喰い)とまで畏怖された強さがなくなってしまった。

    グレッグ・レモン……1983年に優勝したが、4年後の1987年4月、狩猟中に仲間から誤射され瀕死の重傷を負う。 また、1989年にも優勝したが、体内に残った散弾による鉛中毒と見られる筋肉疾患により引退を余儀なくされる。

    ステファン・ロッシュ……1987年に、メルクス以来となるトリプルクラウンの大偉業を達成したが、翌年のツール・ド・フランスのチームタイムトライアルでスタートに遅刻し失格。以降も膝の故障に悩まされ続け、これといった活躍機会は訪れなかった。

    ルディ・ダーネンス……宇都宮で行われた1990年のプロロードチャンピオン。8年後の1998年、交通事故で他界。

    ジャンニ・ブーニョ……1991年、1992年と二年連続で優勝するが、翌年から極度のスランプに陥る。その後家庭不和により離婚。

    ランス・アームストロング……1993年に優勝したが、3年後に癌を発病。

    リュク・ルブラン……1994年に優勝したが、翌シーズン開始直後に所属チームのスポンサーが破産しチームが消滅。シーズン中盤以降のレースにすべて出場できなくなった。

    ヨハン・ムセウ……1996年に優勝したが、翌年のロンド・ファン・フラーンデレンで撮影バイクに追突されて車輪を破損。パリ~ルーベでは圧倒的に有利な展開に持ち込みながらゴール直前でパンクして優勝を逃した上、1998年の同レースで膝蓋骨複雑骨折の重傷を負った。その後オートバイを運転中に頭蓋骨骨折の事故を起こす。

    ローラン・ブロシャール……1997年に優勝したが、翌年にチームぐるみのドーピングが発覚し出場停止となる。

    ヤン・ウルリッヒ……2001年のタイムトライアル部門で優勝したが、翌年膝を故障。さらに交通事故を起こしたうえ、抜き打ち検査でドーピングが判明してチームから解雇された。

    イゴル・アスタルロア……2003年に優勝。翌2004年にまずコフィディスに移籍したが、チームぐるみのドーピング疑惑が持たれたため、問題が解決するまでチーム活動の停止を余儀なくされた。そのため急遽、同年5月にランプレに移籍したものの、同年シーズン限りで契約を打ち切られる。

    トム・ボーネン……2005年に優勝するが、翌年恋人と破局したうえ、交通事故を起こす。

    パオロ・ベッティーニ……2006年、2007年に優勝したが、2006年の大会終了直後に兄を交通事故で亡くしている。また2007年には世界選手権で使用したマシンがチームの車ごと盗まれた。

    アレッサンドロ・バッラン……2008年に優勝したが、2009年春先にウィルス性の胃腸炎にかかり、春のクラシックシーズンを棒に振る。その後2010年にドーピング疑惑が浮上し出場自粛。

    カデル・エヴァンス……2009年に優勝。2010年はフレーシュ・ワロンヌで優勝するなど順調に見えたが、ジロ・デ・イタリア第2ステージでマリア・ローザを獲得した後の第3ステージで強風による集団分断で脱落。さらには大会後半には発熱し総合5位に終わる。その後のツール・ド・フランスでは第8ステージでマイヨ・ジョーヌを獲得するも、そのステージでの落車が原因で左肘を骨折。翌第9ステージで大きく遅れ、最終的に総合26位に終わる。

    などがある。

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    東京競馬場にある第3コーナーはお墓を壊して作成したため呪いがあるというもの。

    実際第3コーナーにある大木(通称「大ケヤキ」と呼ばれるが、実際はエノキ)

    の下は元々井田摂津守是政のお墓があり大ケヤキを切り倒そうとした作業員達が謎の死をとげるなど不可解な現象が続発、計画は断念されたという。

    作家の寺山修司がこのことをエッセイで紹介したのがきっかけで都市伝説化しハローバイバイ関暁夫の都市伝説でも取り上げられた。

    現在でも数年に一度第3コーナーで祟りによる落馬が発生するという噂がある。

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